ハンガリーが誇る大作曲家バルトーク(1881年~1945年)がパントマイム曲を完成させたのは、1918年から1919年にかけてといわれます。
バルトークは、この時期、いまだブダペストにとどまっていました。
ブダペストは19世紀末に建築家レヒネル・エデンの活動もあってアール・ヌーボーの都として、世紀末文化を開花させました。
そのブダペストに住んでいたバルトークが綴った「不安」・・・。
19世紀から20世紀にかけての時代の変わり目に飛び出した魔物にでも怯えるかのように、都市を表現する音楽は不安の旋律を奏でるのです。
中央ヨーロッパから東ヨーロッパにかけての都市の空気を、この一分半にも満たない序奏で代表させるのは、乱暴に過ぎるでしょうか。
イギリス最大の科学者の1人であるマイケル・ファラデー。
彼は、長期間にわたる苦しい実験を通してたくさんの重要な発見をしました。
・・・この時代の他の人たちと同様に、彼もまた自分の専門を狭い領域に限定することなく広い範囲の研究に興味を持っています。
液化気体の発見、光学ガラスの製作、電気モーターの発明・・・
このリストはどこまでも続きます。
この利己的とは縁遠い温和な人物は個入的な報酬を望むこともなく、科学と全世界に多くのものを与えました。
彼の偉大な名前はキャパシタンス(電気容量)のSI単位の名称「ファラッド」として不朽の名誉を保っています。
彼女にあてたたくさんの手紙の中で彼はこう書いています。
「さらし粉や、油や、実験室や、安全灯や、鋼のはざまで自分がしている仕事なぞあなたへの愛に比べるとつまらないものに過ぎません」。
・・・こうして1820年、29歳のとき彼はサラと結婚しました。
彼女は彼が望んでいたような質素な生活にすぐになじみ、献身的な妻となりましたが2人の間に子供は恵まれませんでした。
1857年、ファラデーは王立協会の会長に推挙されたけれども、協会の体質と経営は自分は受け入れることができないと極力これを拒みました。
・・・彼はまたナイトの爵位を受けることをも辞退しました。
彼の最後の研究は磁場における光の屈折で、この研究が完成したのは1862年彼が71歳のときでした。
その後間もなく彼の健康は心身ともに急速に衰え、この状態でなお5年ながらえて1867年8月25日、ロンドンで亡くなりました。
遺体はハイゲート墓地に葬られています。
サンデマンとはこの教派の創始者の名で、彼の父は僅か数十人しかいないこの教派の長老でした。
信者はみな使徒的な清貧の生活を重んじて、金銭を貯めることはもっとも重い罪と考えていました。
ファラデーも多くの発明から容易に財産をっくることもできたのですが、彼は自分の研究で特許をとろうなどとは少しも考えず、どんなに僅かでも稼いだものはすべて慈善にまわしました。
・・・しかし彼自身は自分の発明がどれほど金銭的な価値をもっていたかは知っていたと思われ、こんな逸話が残っている、時の首相グラッドストーンが電気は何の役に立つのかと彼にたずねたとき、彼は答えています。
「閣下はこれに税金をおかけになることもできましょう」。
・・・またこんな話も伝わっています。
同じ質問をある貴婦人から受けたときの彼の返事はこうでした。
「奥様、生まれたばかりの赤ん坊は何の役に立つでしょうか」。
ファラデーは異性にはほとんど興味が無かったのですが、遂に同じ教派に属する可愛い少女サラ・バーナードにめぐりあいました。
ファラデーが彼の主人の伴をして海外へ旅をしたときにはアンペール、ゲイ・リュサック、クレマン、デソルムなどといった人たちと逢う機会を得ました。
これまで数マイルより遠い旅をしたことの無かった青年にとって、この旅行は興奮の連続でした。
彼は車に乗って走っていたナポレオンさえも見かけたのです。
大陸から帰ったファラデーは長い期間にわたる研究に着手して、化学や金属学、電気学上の発見をしました。
1817年には最初の偉大なる発見・・・
つまり電磁誘導を発見し、変圧器と発電機をはじめて製作しました。
彼が考えた力線とか力管の概念とその性質に関する研究は、のちにクラーク・マックスウェルによって光の電磁波の理論へと発展し、これからラジオの発明へと進んでいきます。
ファラデーの発見は当時発展しつつあった電気化学工業や染料工業に決定的に重要なものでした。
私生活上のファラデーは非常に敬けんな人であって、サンデマン派という厳格な教派に属していました。